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ずうっと昔から、その書店の玄関先には三毛猫が居た。時折欠伸をしながらふくふくと昼寝している。
もう数十年になるぜ、尻尾が割れているんじゃないのかい、と冗談交じりに話したことがあるが、なぁに旦那。種明かしをすれば詰まらない話で、代々子猫が跡を継いでいるのさ、と言われてなるほどと納得したものだ。
ただ、思い返すと、その時ぼくは独り言をつぶやいただけだったように思うし、周りに人などいなかったような気がするのだけれど。

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草原の草は妙に青白くて半透明で、踏みつけるたびにパリパリと乾いた音を立てた。齧ってみると、錆びた金属のような味。足跡が綺麗な一直線に残っている。誰かに踏まれるだなんて、この草たちは進化してこのかた想像したこともなかったのだろう。
私は何故、前に向かって歩いているのかわからない。そもそもこちらが前なのかもわからない。何もわからない。
わからないけど歩くしかない。
わからないから歩くしかない。
この足跡が巨大な宇宙にとって、素粒子ひとつぶ分だけでも、変化の兆しであるように。

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先生はずらりと人間の標本を並べている。まるで生きているような世界各国のひとたちがさまざまな民族衣装を着て、ふたりずつ手を取り合っている。
だから僕も当然、最後には先生のコレクションのひとつになるのだろうと思っていたけれど、なかなかその日は来なかった。どちらにしても、他に仕事のあてもなく、どうせあの戦火の中で爆死か餓死をするくらいなら、ここでホルマリンに漬けられたほうがよほどましな人生というものだ。
その夜突然降り始めた大雨は、なかなか止まなかった。先生は嬉しそうな顔で外を眺めている。ああ、僕は先生のおめがねに適わなかったのだな。雨が地盤を揺るがして研究室を浮遊させはじめた時に僕はようやく気が付いた。ひとまずこの身体、溢れる水の中に投げ捨ててしまうよりは、食べて糞になり土に混ざり、一枚の木の葉くらいになれるなら幸せだろう。
先生にごめんなさいを言おうとして、僕はようやく、もともと人間の言葉なんて喋れなかったことを思い出した。

廃墟の森で空を眺める。彼女のセンサーは壊れかけているから、黒い廃油の流れも小川に見えるし、崩れ落ちそうな風力発電機を大樹だと信じている。そもそも彼女は何時から彼女なのだろう? いろんなものが足掻くように接続を繰り返し、もうほとんど動くことが出来ない。最後のネットワーク中枢で、最後の思考に良く似た電気信号を、何処へともなく送信する。
――地上がまた完新世後期の環境を取り戻しました。
その分析自体は間違っていないのかもしれない。

お鍋をことこと、煮込みながら、一日の物語を考える。朝、寝坊しかけたこと。学校に行って、お昼は学食。午後は小テストに失敗してちょっとへこんだけれど、帰り道に寄った本屋さんに大好きな漫画の新刊が出ていたので気分良くなって。帰宅して漫画を読んで、宿題を済ませて、おなかがすいたので、冷蔵庫に入れてあった二日目のカレーの鍋をことこと。
なんて、それは全部うそ。
学校にも行ってないしテストもしていない。本も読んでいないし、宿題だってもちろんない。
そして、お鍋の中身だって本当は存在していないんだわ。
ぬけがらの骨みたいな私は、乾いた音をたてながら天井を見上げた。もちろんそこには天井もなく、突き抜けた大きな穴の上にぽっかり月が見えていた。

恋人と一緒に歩いていたら、いきなり見知らぬ人が現れて、この泥棒猫!だとか何だとか、古式ゆかしく私を罵倒した。泥棒だなんて、人間を物扱いするとは失礼ですね、と言うと、人間の部分になど興味はないのだと言って、恋人の頭に生えていた無数の緑の芽をぷつぷつと全て抜いた。
見知らぬ人は芽を透明なカプセルに放り込み、これで未来の世界は救われます、と満面の笑みを浮かべ、銀色の服を煌めかせてひょいと消えてしまった。私は恋人を見つめたけれど、相変わらず不思議そうな顔で私を見つめ、あなたは誰? と同じ台詞を繰り返す。
髪の毛が茶色一色になってしまったのは惜しいけれど、なあに、大した問題ではない。私はまた恋人に手を差し伸べて、さあ、あと少しでつきますよ、と優しく声をかけた。